英軍が略奪したアサンテ王国の黄金 収蔵庫での行方を追った新刊
バーナビー・フィリップス氏が2026年に刊行した書籍『The African Kingdom of Gold: Britain and the Asante Treasure』は、19世紀に英国が西アフリカのアサンテ王国から略奪した黄金の品々が、その後どこへ渡り、どのような扱いを受けてきたのかを追ったノンフィクションだ。公文書の調査と独自の取材を組み合わせ、略奪された品々が展示室ではなく博物館の収蔵庫でたどってきた経路を掘り起こしている。
何が起きたのか
舞台となるのは、現在のガーナにあたる地域にあったアサンテ王国と、当時「ゴールドコースト」と呼ばれていた英国の植民地だ。1873〜74年、英国軍がアサンテの首都クマシを陥落させる戦争が起きた。アサンテの人々はこの戦争を、指揮官サー・ガーネット・ウォルズリーの名がなまった「サグレンティ戦争」として記憶しているという。その傷が癒えないうちの1888年、プレンペ1世がアサンテヘネ(アサンテ王国の王)に即位する。彼にとって最大の懸案は、ゴールドコーストに居座る英国の存在だった。
1895年末、サー・フランシス・スコット率いる英国軍が再びクマシに進軍し、王宮と霊廟を略奪したうえで焼き払った。英国側はアサンテに対し、多額の賠償金を金で支払うことに加え、アサンテの人々にとって最も神聖な王権の象徴とされる「黄金の椅子」を引き渡すよう要求した。アサンテ側の口伝によれば、プレンペは英国の総督マクスウェルの前に身を伏せ、「私の民と私を連れ去らないでほしい」と嘆願したとされる。しかし願いは聞き入れられず、プレンペはセーシェルへ流刑となり、以後約30年をそこで過ごすことになった。黄金の椅子は英国の手に渡ることなく、隠され、守られ続けたという。
背景
こうした略奪は、19世紀後半に英国がアフリカ各地で領土と資源を奪っていった植民地拡大の一場面といえる。金の産地として知られたゴールドコースト一帯は英国にとって経済的にも重要な地域で、アサンテ王国の抵抗を武力で排除する動きが繰り返されたとされる。略奪された黄金の品々の多くは、その後英国へ運ばれ、博物館の収蔵品として保管されてきたとみられる。
英国の国立博物館は法律上、収蔵品を売却したり他国へ譲渡したりすることが難しい仕組みになっているとされる。大英博物館もこの原則をとってきたと指摘されており、植民地時代に持ち出された文化財の返還をめぐる議論では、この制度上の制約がしばしば争点になる。展示室に並ぶ品の背後に、こうした収蔵庫での「その後」があることを、フィリップス氏の著作は具体的な事例を通じて示している。
日本にとっての意味
この話は、遠いアフリカの歴史にとどまらない。「収蔵品は法律や規則のうえで手放せない」という論理は、文化財の所在をめぐる対立が起きる場面で、国や機関を問わず持ち出されうる構図だからだ。
日本自身も、この構図の両側に立ちうる。国内では、アイヌ民族に関わる遺骨や資料の扱いをめぐり、返還や公開のあり方が議論されてきた経緯がある。そこでも「制度上どこまで応じられるか」という同じ種類の壁が論点になりうる。逆に、海外の美術館や博物館に渡った日本由来の美術品や考古資料についても、返還を求める側に立てば、今回のアサンテ王国の黄金をめぐる話と同じ論法に直面する可能性がある。
さらに、大英博物館をはじめとする英国の博物館を訪れる日本人観光客にとっても、展示されている品がどのような経緯でそこにあるのかという視点は、旅先の見え方を少し変えるかもしれない。