アート・カルチャー

ウィーンのサッカー場地下で見つかった古代ローマの集団墓地

オーストリア の記事一覧 ・ ヨーロッパ

オーストリアの首都ウィーンで、サッカー場の改修工事中に見つかった古代ローマ期の集団墓地について、遺骨の傷を詳しく分析した新しい研究結果が発表された。骨盤部に集中する激しい損傷のパターンから、埋葬された若い男性たちが処刑ではなく実際の戦闘で命を落とした可能性が高いことが分かってきた。

何が起きたのか

現地時間2024年10月、ウィーン郊外の通り「ハーゼンライテンガッセ」でサッカー場を改修していた作業員が、紀元1世紀末から2世紀初頭とみられる集団墓地を発見した。当初の調査では最大150人分とされていたが、その後の詳しい分析で、20歳から35歳の男性少なくとも128人が埋葬されていたことが分かった。ウィーンの考古学会社ノヴェトゥスの生物考古学者シェリダン・ストラング氏らが、古病理学会(Paleopathology Association)の会合でこの内容を発表した。

発表によれば、遺体は丁寧に扱われた様子がなく、時間に追われたような埋葬で、戦闘の直後に急いで葬られたとみられている。少なくとも48体の骨格に外傷の痕跡が確認され、そのほとんどが死亡時期に近いタイミングで負ったものだった。最も多く見られたのは骨盤部への損傷で、刃物による傷は主に頭蓋骨に集中していた。ストラング氏は科学メディアのライブサイエンスに対し、発掘した遺体の一体には槍の穂先が骨盤に刺さったままだったと明かし、「加害者はこうした急所を狙っていた」と述べている。

遺跡からは鉄製の短剣や鱗状の鎧、兜の一部なども見つかっており、ウィーン博物館は2025年の声明で、負傷の数や種類の多さから、軍務での臆病を罰する処刑といった可能性は排除できるとしたうえで、「すべてが軍事作戦の破滅的な結末を指し示している」との見方を示した。

なお、今回の分析結果は学会での発表段階で、査読を経た学術誌にはまだ掲載されていない。遺骨の研究は現在も続いており、内容は今後の検証で更新される可能性がある。

背景

古代のウィーンには、ローマ軍の駐屯地「ウィンドボナ」があった。ドナウ川沿いに築かれたこの拠点は、帝国の北方防衛線の一角を担っていたとみられる。ウィーン市の考古学者マルティン・モッサー氏によれば、紀元50年から120年ごろのこの地域は比較的平穏な時期だったとされる。ただし文献には、紀元92年にゲルマン系の勢力がドナウ川を渡ってローマ領内に侵入し、ローマ軍団を丸ごと壊滅させたとの記録が残っている。今回の集団墓地がこの事件と関係するのかは、研究者たちも断定できていない。ウィンドボナ周辺では紀元166年から180年ごろの「マルコマンニ戦争」でも戦闘があったことが分かっているが、この場所での埋葬に正確に一致する記録は見つかっていない。

ストラング氏は、埋葬された人々が全員ローマ側の兵士だったとは限らず、ローマ人とゲルマン系の集団が入り混じって埋葬された可能性もあると指摘している。こうした発見が貴重なのは、当時のローマ帝国では火葬が一般的で、戦死者の骨がそのまま残る例が極めて少ないためだ。3世紀以前のローマでは戦死者も一般市民も火葬されるのが通例だったといい、遺骨から直接死因を分析できる例はほとんど残っていない。実際、2011年にクロアチアの井戸で見つかった7体の骨格が、3世紀の混乱期に戦死したとみられるローマ兵と特定された研究も2025年に発表されたばかりで、専門家は戦闘の死者そのものが見つかることはローマ史全体を通じて他に例がないと評している。

日本にとっての意味

ウィーンは日本でも音楽や美術の街として知られ、宮殿や歌劇場を目当てに訪れる旅行者も多い。しかしその起源をたどると、街の礎はドナウ川沿いに置かれたローマ軍の駐屯地ウィンドボナにさかのぼる。観光都市として知られるこの街の郊外に、記録にすら残らなかった戦闘で命を落とした兵士たちの骨が眠っていたことは、華やかな顔とはまったく異なるウィーンの一面を伝えている。

今回のような研究は、文献に残らなかった歴史の空白を、遺骨という物的証拠から埋めていく試みでもある。日本でも合戦や災害の痕跡を骨や遺構から読み解く考古学的な研究が行われており、文字の記録がすべてを語るわけではないという点は共通している。ウィーンを訪れる機会があれば、街並みの背後に、こうした発掘によって少しずつ明らかになりつつある古代の記憶が積み重なっていることを思い出すきっかけになるだろう。