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沈没した英海軍駆逐艦タイガー、118年ぶりに残骸発見

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民間の潜水・調査チーム、プロジェクトエクスプロア(ProjectXplore)は、英仏海峡の海底でイギリス海軍の駆逐艦タイガーの残骸を特定したと発表した。タイガーは1908年、夜間演習中の衝突事故で行方不明となった艦で、118年ぶりに正体が突き止められたことになる。発見場所はワイト島の南、水深約60メートルの海底だった。

何が起きたのか

プロジェクトエクスプロアは2022年から当時の記録を調べ、海底をソナーで捜索してきた。2025年に船体の輪郭を特定し、2026年6月に艦尾部、翌月に艦首部へ潜った。タイガーは、英仏海峡で沈んだ速力30ノット級の駆逐艦のうち、最後まで見つかっていなかった1隻だったという。

現地時間の1908年4月2日夜、英仏海峡で夜間演習中だったタイガーは、1万トン級の巡洋艦バーウィック(HMS Berwick)と衝突し、船体が真っ二つに折れた。片方はすぐに沈み、もう片方も3分ほどで海面下に消え、乗組員57人のうち生き残ったのは22人だった。きっかけは、演習に参加していた艦のうち1隻が魚雷攻撃を模して打ち上げた照明弾だった。周囲は一瞬まぶしく照らされ、タイガーに乗っていた機関科の士官、セシル・ヴィニングは「その後一瞬、何も見ることができなかった」と語った。目が慣れたころには、タイガーはバーウィックの進路に入り込んでいた。近くにいた別の艦の乗組員は当時、「イワシの缶詰が機関車に立ち向かうようなもので、タイガーに勝ち目はなかった」と振り返っている。事故の翌日、エドワード7世は海軍当局に対し、犠牲者の遺族への弔意を伝える電報を送った。

事故の数週間後に開かれた軍法会議では、照明弾が視界を妨げた可能性を指摘する証言もあったが、この点について特定の判断は示されなかった。ある海軍将校は当時、真相が解明されることはないだろうと記者に語っていた。潜水調査では舵の角度を示す装置が見つかり、舵は右に5〜10度ほど当たっていただけで、衝突を避けるための大きな転舵はしていなかったとみられる。艦尾の機関への指示を示す装置も全速のままで、速度を落としていなかったとみられるが、なぜ衝突が起きたのかまでは分かっていない。潜水チームは残骸から物を持ち帰らず、35人の犠牲者を悼み、艦尾の舵をつかさどる部分のそばに、英国で追悼の意味を持つポピー(ひなげし)の花輪を残した。

背景

1908年当時は衛星による位置測定はもちろん、ソナーによる海底探査も一般的ではなく、船の位置は速度と針路、経過時間から推定する推測航法に頼っていたとみられる。夜間の衝突事故では正確な沈没地点を記録しづらく、事故直後に海軍が周辺を捜索しても残骸を見つけられなかったのはこのためとみられる。

タイガーは速力30ノット(1ノットは時速約1.85キロ)級と呼ばれる一群の駆逐艦の1隻だった。駆逐艦はもともと水雷艇を追い払うための小型で速力の速い軍艦として登場した艦種で、19世紀末の登場当時は高速の部類だったとされる。20世紀初頭のイギリス海軍はドイツとの建艦競争を背景に艦艇の増強を急いでおり、こうした夜間演習も繰り返し行われていたとみられる。

今回の発見は、イギリス議会で審議中の軍に関する法律の改正案の議論とも重なる。この改正案には、沈没船を発見された時点で法的な保護の対象とし、許可なく物を引き揚げられなくする仕組みを盛り込む案が含まれている。イギリス海軍は2025年、プロジェクトエクスプロアが第一次世界大戦中にドイツの潜水艦に撃沈された軍艦ノッティンガムの残骸を特定したと発表しており、今回のタイガー発見は同チームの活動の延長線上にある。

日本にとっての意味

1908年当時、日本は1902年に結ばれた日英同盟のもとにあり、日本海軍はイギリスの造船所で軍艦を建造し、艦艇の設計や運用の考え方を取り入れていたとされる。タイガーの事故は、平時の航行・演習中に起きた衝突であり、見張りと当直の判断、回避動作の遅れが被害の大きさを左右した可能性がある点で、海上自衛隊が経験したなだしお(1988年)やあたご(2008年)の衝突事故と比較する材料になる。事故の原因が軍法会議でも完全には解明されなかった点は、複数の艦が入り乱れる状況で何が起きたかを事後に再現することの難しさを物語っている。

今回の発見が、イギリスの沈没船を発見時点で保護する法整備の動きと重なっている点も見逃せない。日本周辺の海域にも、旧日本海軍や連合国側の艦艇の残骸が数多く眠っており、遺骨や遺品の扱い、民間による潜水調査の可否は折に触れて議論になってきた。