OMA共同創設者エリア・ゼンゲリス氏死去、89歳
国際的な建築設計事務所OMAの共同創設者の一人、ギリシャ人建築家エリア・ゼンゲリス氏が現地時間2026年8月30日、89歳で死去した。建築教育者として大きな影響を残し、ギガンテス・ゼンゲリス・アーキテクツの代表も務めた。死去の詳しい状況は公表されていない。
何が起きたのか
ゼンゲリス氏は、1975年にレム・コールハース氏、マデロン・フリーセンドルプ氏、ゾエ・ゼンゲリス氏とともにOMAを設立したことで最もよく知られる。コールハース氏はDezeenに寄せた声明で、ゼンゲリス氏の「あふれる才能」なしにOMAは存在しなかっただろうと述べた。
「私の師、エリア・ゼンゲリスが死んだ」とコールハース氏は書いた。「建築への、そして建築に何ができるかへの陶酔。その状態を今日想像するのは難しいが、その陶酔こそが彼を偉大な手本にし、着想の源にし、共犯者にした。ニューヨークの狭い居間で、午前2時に製図板にかがみ込んで設計しながら裏声で歌っていた彼の姿は、建築が人を幸せにできることの証であり続ける。彼が他人の才能に注いだ寛大さは、その全人生を通じて、途方もないものだった。決定的な時期の私たちのつながりが、この計画を立ち上げる洞察とエネルギーを生んだ」
背景
ゼンゲリス氏は1937年アテネ生まれ。1961年にロンドンの建築学校AAスクールを卒業し、設計事務所ダグラス・スティーブン・アンド・パートナーズで1971年まで働きながら、AAで教壇に立った。1987年までAAで教え、同校の規則集や手続きの指針を作った中心人物の一人とされ、より過激で前衛的な議論を学校に持ち込んだ人物としても知られる。
事務所を離れて4年後にOMAを設立し、ロンドン事務所、後にはアテネ支所を率いた。ゼンゲリス氏とコールハース氏はマンハッタンへの関心を共有し、初期のOMAはニューヨークを舞台にした思弁的・概念的なプロジェクトを多く手がけた。ゼンゲリス氏の影響が色濃いOMAの仕事としては、1978年のオランダ国会議事堂増築案や、1982年のパリ・ラヴィレット公園設計競技案(最終的にベルナール・チュミ氏が勝利)が挙げられる。1990年に完成したベルリンのチェックポイント・チャーリー集合住宅では設計を主導した。
1987年にOMAを離れ、建築家エレニ・ギガンテス氏とギガンテス・ゼンゲリス・アーキテクツを設立。1998年には日本で「あしきた青少年の家」を完成させた。しかしキャリアを通じて、活動の中心は次第に建築教育へ移っていった。AAの後は、1989年にデュッセルドルフ美術アカデミーの建築教授職をジェームズ・スターリング氏から引き継ぎ、2002年まで務めた。ベルラーヘ・インスティテュート、イェール大学、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)、チューリッヒ校(ETH)など有力建築校でも教え、2000年には英国王立建築家協会(RIBA)から教育業績に対するアニー・スピンク賞を贈られた。2009年にはギリシャのテッサリア大学の名誉教授に任じられた。
日本にとっての意味
ゼンゲリス氏の数少ない完成作の一つが日本にある。熊本県芦北町の宿泊研修施設「あしきた青少年の家」(1998年)で、熊本県が建築家を起用して公共建築を作る事業「くまもとアートポリス」の一環として、ギガンテス・ゼンゲリス・アーキテクツが日本の設計事務所と協働で実現させた。波打つ屋根で知られ、同事務所の代表作と評される建物が、九州の海辺の町で今も使われている。
また、OMAとコールハース氏の思想は、雑誌や書籍を通じて日本の建築界にも大きな影響を与えてきた。その出発点となったOMA設立時の「共犯者」であり、コールハース氏自身が「私の師」と呼ぶ存在だったゼンゲリス氏の足跡は、OMAの仕事を通じて日本の建築文化にも間接的に流れ込んでいる。設計作品より教育に軸足を移し、名前の残りにくい形で世界中の建築家を育てた人物の訃報として、記憶しておく価値がある。