マーロウ・モス、半世紀ぶりロンドン個展 デ・スティルの陰の先駆者
抽象絵画の様式「デ・スティル」の発展に関わりながら長く忘れられてきた英国人アーティスト、マーロウ・モスの個展が、現地の9月14日にロンドンのワード・モレッティ画廊で始まった。ロンドンの商業画廊での個展としては半世紀ぶりとなる。ピート・モンドリアンと親交を結び、その画風にも影響を与えたとされる知られざる先駆者に、いま光が当たっている。
何が起きたのか
展覧会「Marlow Moss: Space, Movement & Light」は現地の9月14日から10月30日まで、ロンドンのセントジェームズにあるワード・モレッティ画廊で開催されている。絵画や紙作品、彫刻1点があわせて30点並ぶ。モス(1889〜1958)はコンストラクティビズム(構成主義)とネオプラスティシズム(新造形主義、モンドリアンらが提唱した、水平・垂直の線と原色による抽象様式)の作家で、ロンドンの商業画廊で個展が開かれるのは1975年以来、半世紀ぶりとなる。
モスが生涯に描いた作品はもともと65〜70点ほどしかない。展覧会を企画したエマ・ワード氏によれば、そのうち約3分の1は破棄されたか所在不明で、残る約3分の1が美術館に収蔵されているという。
背景
モスは1889年、繊維業者の娘としてロンドンに生まれ、名をマージョリー・ジュエル・モスといった。スレード美術学校で学んだのち1919年にコーンウォールへ移り、髪を短く切って名前をより中性的な「マーロウ」に改め、乗馬服を着るようになった。「私は古い人格を壊し、新しい人格をつくった」と後に語っている。今の言葉でいえばノンバイナリーと位置づけられる生き方だった。
1927年、当時の前衛芸術の中心地だったパリへ移り、アカデミー・モデルヌで学び、キュビスムのフェルナン・レジェと出会った。デ・スティル創立メンバーの一人ジョルジュ・ヴァントンゲルローと親しくなり、1929年にはカフェ・ド・フロールでオランダの作家アントワネット(通称ネッティ)・ネイホフと出会って生涯のパートナーとなる。
ネイホフを通じて同年、ピート・モンドリアンとも知り合った。モンドリアンのアトリエはモスの近くにあり、彼が1938年にニューヨークへ発つまでの約10年間、二人は親密な関係を築いた。ネイホフは、二人はともに並外れた一匹狼だったと評している。
モスの功績は長くモンドリアンの陰に隠れてきたが、近年の再評価では、その構図が問い直されている。1930年、モスは画面を縦または横に走る2本の平行線「ダブルライン(double line)」という手法を考案したとされる。1932年、モンドリアンがこの手法について尋ねる手紙を送ると、モスは複数の線を使うことで空間内に関連しあうリズムの連続性が生まれ、構図が静的でなく動的になる、といった趣旨の説明を返した。
モンドリアンはその後の作品にダブルラインを取り入れたが、多くの人はそれを彼自身の発案と考えた。ヴァントンゲルローはモンドリアンにモスの功績を認めるよう促したが、モンドリアンは応じず、二人の関係は数年間冷え込んだとされる。1936年になってようやく、モンドリアンは画家ジャン・ゴランへの手紙で「彼女とはまた元通りになった」と書いている。
モスとネイホフは、パリとノルマンディー、ゼーラントを行き来しながら暮らしていた。ユダヤ系だったモスはナチスの迫害を逃れ、1940年に大陸からイギリスへの最後の旅客船とされる船でコーンウォールへ帰還した。第二次世界大戦中にはノルマンディーの自宅が破壊され、戦前の作品の多くが失われた。加えてモスは、気に入らない作品を自ら破棄する厳格な性格だった。さらに、油絵の具を何層も重ねて一週間ごとに乾燥させる時間のかかる技法を用いていたため、そもそも残された作品自体が少ない。
死後、モスの再評価は少しずつ進んだ。1953年と、モスが死去した1958年にロンドンのハノーヴァー画廊で個展が開かれ、1962年にはアムステルダムのステデリック美術館、1973年にはチューリッヒ、1975年にはロンドンのギンペル・アンド・ハノーヴァー画廊でも取り上げられた。1979年のニューヨークでの展覧会評で、ニューヨーク・タイムズの批評家は、モスには自分自身に固有の表現方法を見つけようとする意志があったとし、1932年ごろにはむしろモンドリアンがモスから何かを得ていたのではないかとさえ論じている。
日本にとっての意味
モンドリアンの格子模様は日本でも広告やデザインの引用として広く親しまれているが、その様式の一部がモスとの交流や影響関係の中で形づくられた可能性があるという点は、日本ではほとんど知られていない。よく知られた様式ほど、美術史で「発明者」が誰かという問いは単純ではない。この事例はそれを示している。
モスの生涯の作品はもともと65〜70点ほどしかなく、その3分の1近くが失われたか所在不明とされる。日本でモスの実物を見る機会は今後もまず期待できないとみられ、こうした海外の個展の報道自体が、日本の読者にとってこの作家を知るほぼ唯一の窓口になる。