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ローマ街道網30万キロを解析、首都経由しない道も発見

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「すべての道はローマに通ず」という言葉は広く知られているが、実際のローマ帝国の道路網は必ずしも首都中心には作られていなかったことが、新しい研究で分かった。研究チームは紀元150年時点の道路網を分析し、地形に応じて曲がる区間が多いことや、属州(ローマが地方を統治するために設けた行政区分)の中心都市の方が交通の要衝として機能していた例もあることを明らかにした。

何が起きたのか

学術誌ネイチャー・コミュニケーションズに発表された研究は、デンマークのオーフス大学のトム・ブラフマンス氏らが参加する国際チームによるもので、ローマ帝国が築いた総延長約30万キロに及ぶ道路網を対象にした。研究チームは以前に公開した「イティネル・エ(Itiner-e)」というデジタル地図をもとに、地形データと歴史的な記録を突き合わせ、道路の直線性や構成、都市間のつながり、現代の道路との重なりを調べた。

分析の結果、ローマは街道網の中で決して孤立していたわけではなく、イタリア半島のティレニア海沿岸では中心的な位置を占めていたことが確認された。ただし半島全体の人や物の移動を考慮すると、最も中心的な役割を果たしていた道はローマを経由せず、反対側のアドリア海沿岸を通っていたという。ブラフマンス氏は通信社ロイターに対し、「イタリア半島全体の移動を考えたとき、最も中心的な道が実はローマを迂回して反対側のアドリア海沿岸を通っていることが分かり、驚いた」と語っている。

道路の直線性についても、これまでの通念とは異なる結果が出た。研究を主導したバルセロナ自治大学のアダム・パジョウト氏によれば、ローマの技術者は可能な限り直線のルートを選んだものの、山や谷、川、既存の集落に合わせて道を曲げることも多かった。段状の造成や岩の切削、擁壁、橋といった土木技術を駆使するなど、困難な地形を越える工夫がされていたという。

また、ローマ帝国東方の首都だったビザンティウム(現在のイスタンブール)は、ローマよりも帝国全体との結びつきが強かったことも判明した。属州の中心都市は、それぞれの属州内の道路網において行政や徴税の面で効率よく機能する位置に置かれていたとされる。

背景

ローマ最初の本格的な街道は、紀元前312年に政治家アッピウス・クラウディウス・カエクスの命で建設が始まったアッピア街道とされる。当初はローマからティレニア海沿岸を南東へ約210キロ延び、後にアドリア海側まで延長された。紀元前27年にローマ共和政から帝政へ移行すると、各地の征服と併合が進み、現在のトルコに当たるガラティアや、現在の英国に当たるブリタンニアなど広大な属州が生まれた。交易や往来を促すため、軍団兵らが各地で道路建設に動員されたという。

初代皇帝アウグストゥスは紀元前20年、ローマのフォルム(公共広場)に「ミリアリウム・アウレウム(Milliarium Aureum、黄金の里程標)」と呼ばれる記念碑を建てた。これは帝国内のすべての道の起点を象徴していたが、実際の道路網の構造はそれとは異なっていたことになる。

耐久性の高いローマ街道の一部は、砕石や平石、石灰セメント、砂利で舗装され、帝国が5世紀に滅びた後も中世を通じてヨーロッパの陸上交通を支え続けた。19世紀の鉄道、20世紀の自動車道の時代になっても一部の経路は受け継がれ、例えばスペイン最長の幹線道路N-340号線は、紀元前5年にローマが建設したアウグスタ街道の経路をたどっているという。研究では、こうした現代の主要道路とローマ時代の道路網との間に、完全には一致しないもののある程度の重なりが見られると結論づけている。

もっとも、この研究には限界もある。オーストラリアのマッコーリー大学の歴史学者レイ・ローレンス氏は、ローマの道路網が600年という長い期間をかけて形成されたにもかかわらず、研究では時代ごとの違いがあまり考慮されていない点を指摘している。ある時代の道と別の時代の道を同列に並べて分析すれば、実態とはずれた印象を与えかねない。

日本にとっての意味

この研究が投げかけるのは「すべての道は中心地に通じているはずだ」という思い込みへの疑いであり、これは日本の古代交通史を考えるうえでも参考になる視点だ。律令制のもとで整備された東海道などの官道は、都(奈良や京都)と地方を結ぶために作られたとされるが、実際にどの程度都への集中度が高かったのか、あるいは地方拠点同士の結びつきの方が強い区間があったのかは、同様の手法で検証できるテーマだろう。