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存命中に冷遇された彫刻家ロラ・モラ、アルゼンチンに新美術館

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アルゼンチン北西部フフイ州の州都サンサルバドル・デ・フフイに、同国初期の女性彫刻家ロラ・モラ(1866〜1936年)の功績を称える美術館「ロラ・モラ文化センター」が開館した。かつてブエノスアイレスの国会議事堂のために1906年に制作を依頼されながら、その15年後に撤去されフフイ州各地に分散していた6体の彫刻が、修復を経て100年以上ぶりに一堂に集められている。

何が起きたのか

アンデス山脈の麓に広がる1.3ヘクタールの敷地に建てられたこの美術館には、モラの代表的な寓意像6点「ライオン」「自由」「進歩」「労働」「平和」「正義」が展示されている。これらはもともと1906年、ブエノスアイレスの国会議事堂を飾るために制作を依頼されたが、後年撤去され、フフイ州内の各所に置かれていた。長年の劣化や破壊行為の被害を受けていた作品は、今回の開館にあたり大規模な修復が施された。館内はガラスを多用した造りで、彫刻は周囲の亜熱帯林「ユンガス」や庭園の景観と一体化するように配置されている。

建物を設計したのは、クアラルンプールのペトロナスツインタワーなどで知られるアルゼンチン出身の建築家、故シーザー・ペリ氏(1926〜2019年)。同氏が創設した米国の設計事務所ペリ・クラーク・アンド・パートナーズにとって、南米で初めて手がけた美術館であり、ペリ氏自身にとっては最後のプロジェクトとなった。延べ床面積約3000平方メートルの2階建てで、彫刻家のノミを思わせる形状をしている。息子で同事務所パートナーのラファエル・ペリ氏によると、当初は屋外中心の構想だったが、彫刻の保存上の必要から、光を取り込みつつ敷地への負荷を抑えた現在の形に発展したという。センターはフフイ州政府の資金で運営され、館内にはレストランや図書室、滞在制作用のスタジオも設けられており、既存の州内9館に加わる地域の文化拠点として位置づけられている。

背景

ロラ・モラは本名をドロレス・カンデラリア・モラ・ベガといい、19世紀末から20世紀初頭という、女性が公的な彫刻の仕事に就くことがほとんどなかった時代に活動した先駆者だった。30歳の時に政府の資金でローマに渡り、彫刻家ジュリオ・モンテヴェルデに師事して絵画から彫刻へと転向、当時は男性の領分とされていた分野で自らのアトリエを構えて成功を収めた。1900年のパリ万国博覧会では、自身の大理石の自画像彫刻が金メダルを受賞するなど国際的にも評価された人物である。

アルゼンチン政府からは、公共の場に置く記念碑的な彫刻の制作を数多く依頼された。しかしその作品は、当時の社会規範と衝突することがたびたびあった。代表作としてよく知られるブエノスアイレスの「ネレイデスの噴水」(1903年)は、裸体像を含むことへの批判を受けて設置場所を移された経緯がある。今回展示された6体の議事堂彫刻も、同様に撤去の憂き目にあった作品群だ。こうした逆風のなか、モラは晩年、貧困と忘却のうちに世を去った。美術館館長のビクトリア・マルティネス・ファッシオ氏は「ロラは、彼女の才能をしばしば認めようとしなかった社会の慣習に対し、創造し、闘い、挑んだ」と語っている。モラは1924年から1926年にかけてフフイ州で都市計画にも携わっており、今回の美術館開館は、彼女と同州との縁を踏まえたものでもある。

建築面では、LEEDゴールド認証の取得を目指す設計となっており、水管理システムや実質ゼロエネルギー消費を掲げている。敷地内の既存の植生への影響を抑えるため、必要な樹木は移植する形で建設が進められた。

日本にとっての意味

ロラ・モラの名は、西洋美術史の主流の語りではほとんど取り上げられてこなかった。だが、女性が公共彫刻という男性優位の分野に進出し、国際的な評価を得ながらも、作品の内容や作者の性別を理由に排除され、最終的に困窮のうちに忘れられていった経緯は、同時代の日本を含む各国で美術に携わった女性たちの境遇とも重なる部分がある。近年、欧米の美術館では長らく評価の外に置かれてきた女性作家や非西洋圏の作家を再検証する動きが広がっているとされ、今回のような地方美術館の開館もその流れの一つとして捉えられる。

日本の読者にとって、アルゼンチン北西部という地理的な距離は大きいが、公共空間に置かれた美術作品が誰の判断で撤去され、誰の手で再評価されるのかという問いは、日本でも銅像や記念碑の設置・移設が自治体の判断で決まり、その是非が繰り返し論じられてきた点と重なる。また、シーザー・ペリという著名建築家の最後の作品が、これまで日本であまり知られていなかった彫刻家の顕彰施設として結実したという点も、建築と美術史の接点を考えるうえで興味深い事例と言える。