サンフランシスコの裏庭から68キロの石像、住人2人が作者探し
何が起きたのか
米国サンフランシスコ在住の造園業者グレッグ・ガトウッドさん(65)は現地時間の今年5月、自宅の裏庭を掘っていたところ、シャベルが硬いものに当たった。古いフェンスの土台だろうと思い、つるはしで掘り出してみると、そこにあったのは石灰岩でできた女性の胸像だった。頭部と首から四角い台座が続く形で、重さは推定で約68キログラム、幅56センチ、高さ46センチ、奥行き25センチほどの大きな作品だった。
ガトウッドさんはパートナーで画家のジュディ・ギテルソンさんにこの発見を伝え、2人はこの数か月、誰がこの像を彫ったのか、なぜ裏庭に埋まっていたのかを調べ続けている。ギテルソンさんは地元メディアに「50人近くに話を聞いたが、誰も何も知らなかった」と語り、相当な技量を持つ人物の作で、素人の趣味で作れるものではないとみている。
署名や来歴の記録がなければ作者の特定は難しいと専門家は指摘する。非営利団体ヒストリー・サンノゼの学芸員ケン・ミドルブルックさんは地元テレビ局に、2人が見つけたのは貴重な発見だとしたうえで、難しいのは誰が作ったかを突き止めることだろうと話している。
ギテルソンさんが有力視しているのは、20世紀前半にサンフランシスコで活動した彫刻家ラルフ・スタックポールか、その弟子の誰かが手がけたという説だ。スタックポールは1930年代、大恐慌下でフランクリン・ルーズベルト大統領が進めた公共事業美術計画(Public Works of Art Project)の一環として、市内のコイト・タワーの壁画制作に参加したほか、太平洋岸証券取引所の建物の入り口を飾るアール・デコ調の彫像も手がけた人物。2人の自宅は、スタックポールが彫刻を教えていたカリフォルニア美術学校(後のサンフランシスコ・アート・インスティテュート、2022年閉校)の彫刻科の校舎の向かいにある。自宅が1948年に建てられる前、この土地は空き地だったといい、ギテルソンさんはスタックポールか教え子が像をそこに埋めたのではないかと推測している。
トレジャーアイランド博物館の理事で歴史家のアン・シュノーベレンさんは、スタックポール本人のほか、弟子だったアデライン・ケントやヘレン・フィリップスが制作した可能性も指摘する。1939〜40年にサンフランシスコで開かれた金門国際博覧会の「パシフィカ広場」には、スタックポール作の高さ24メートルの女神像パシフィカのほか、大小20点の彫刻が展示されていたといい、シュノーベレンさんは「パシフィカ広場のために作られた顔の一つのように見えるが、確証はない」と話す。なぜ地中に埋められていたのかについては、作者が出来栄えに満足しなかったのかもしれないとし、誰かが埋めた理由があるはずで、語られたくない事情があるのかもしれないとの見方を示した。
背景
サンフランシスコは20世紀前半、公共事業として多くの壁画や彫刻が作られた街として知られる。1906年の大地震の後、街の再建とともに芸術振興が進み、ニューディール政策下の公共事業美術計画(Public Works of Art Project)では画家や彫刻家に仕事を提供する目的も兼ねて多くの美術作品が生み出された。スタックポールはパリの国立美術学校で学び、そこでメキシコの壁画家ディエゴ・リベラと知り合って親交を結んだことでも知られる。リベラとその妻でメキシコの画家フリーダ・カーロは、1930年代前半にスタックポールの工房に半年ほど滞在していたという。
日本にとっての意味
日本で敷地から由来不明の遺物が見つかった場合、埋蔵文化財に該当する可能性があれば教育委員会への届け出が義務づけられ、所有権も発見者が自由にできるとは限らない仕組みになっている。一方、今回の米国の事例では、届け出をめぐる話は伝えられておらず、2人はそのまま自分たちの所有物として庭に飾りながら作者探しを楽しんでいる。この違いは、文化財の扱いをめぐる制度の差を映し出している。
調査の進め方にも参考になる点がある。2人は美術館の学芸員や地域史の専門家に個別に相談し、当時の博覧会の記録や彫刻家の作風の特徴(顔の広さや鼻の形といった造形上の癖)を手がかりに作者を絞り込もうとしている。無銘の作品の真贋や作者を推定する際、様式比較や地域の記録調査を積み重ねる手法は、日本の骨董や古美術の鑑定でも共通する考え方であり、身近な発見が思わぬ美術史の探究につながる例として読んでおく価値がある。