沿岸の世界遺産386カ所、初の詳細な境界地図が完成
英国の研究チームが、海岸近くにあるユネスコ世界遺産386カ所について、初めて高精度のデジタル境界地図を作成した。対象は合計2億3500万ヘクタールに及ぶ。研究成果は2026年7月に学術誌サイエンティフィック・データに掲載された。誰でも無償で使えるこのデータは、洪水や浸食など気候変動によるリスクを研究者や現地の管理者が評価するための土台になるという。
何が起きたのか
英イーストアングリア大学の気候適応学教授ロバート・ニコルズ氏らの研究チームは、ユネスコが2023年時点で認定していた173カ国1199件の世界遺産のうち、標高20メートル未満で海岸に近い場所を抽出した。文化遺産289件、自然遺産91件、複合遺産6件が条件に合致し、約14人のデジタイザーが既存の地図や座標データを手作業でなぞり、境界線を描き起こした。人工知能や機械学習は使わず、Google Earth上で一つひとつの島や砦の輪郭を手で描いたという。最終的にできあがった地図は、386の遺産を1250個の区画(ポリゴン)として表現している。
対象には、セネガルのジュジ国立鳥類保護区やモーリタニアのバンダルガン国立公園といった西アフリカの砂漠湿地帯、オーストラリアのグレートバリアリーフ、グリーンランドのフィヨルドなどが含まれる。研究に関わった英ダラム大学の考古学者ジョアン・クラーク氏によると、こうした場所は気候変動だけでなく、浸食などそれ以外の環境要因によっても脅かされているという。作業は単純だが手間のかかるものだったといい、たとえばロシアのサンクトペテルブルクは運河や街路、埠頭が絡み合う複合体で126カ所の関連地点を含み、バルト海のフィンランド湾に浮かぶ島や要塞も一つずつ境界を描く必要があった。
背景
ユネスコの世界遺産制度は、人類にとって顕著な普遍的価値を持つ文化財や自然環境を国際的に保護する枠組みとして1972年に始まったとされる。だが、ユネスコ自身は全登録地の正確な境界データ(ポリゴン)を整備していなかったという。境界データがなければ、海面上昇や高潮でどの範囲がどの程度浸水しうるかといった具体的なリスク評価は難しい。今回のデータセットは、その空白を埋める初めての包括的な地図として位置づけられる。
ただし、研究に関わっていない英セントアンドリュース大学の沿岸遺産考古学者トム・ドーソン氏は、このデータはリスク評価の出発点にすぎないと指摘する。国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の予測のような地球規模の気候モデルをそのまま当てはめて「海面が1メートル上がればこの遺産は消える」と単純に言えるものではなく、地域固有の気候モデルと組み合わせて初めて意味を持つという。地図はあくまで、どこを詳しく調べるべきかを示す第一歩ということになる。
日本にとっての意味
公開されているデータセットの収録一覧には、日本の世界遺産も複数含まれている。知床、小笠原諸島、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産、明治日本の産業革命遺産(長崎造船所の各施設など)、北海道・北東北の縄文遺跡群、百舌鳥・古市古墳群だ。島や沿岸の低地に文化財が点在する日本は、「標高20メートル未満で海岸に近い」という今回の抽出条件に当てはまる遺産を少なからず抱えていることになる。
データは無償で公開されており、日本の研究者や自治体が高潮や海面上昇のリスク評価を行う際にもそのまま使える。ドーソン氏の指摘のとおり、意味のある評価には地域固有の気候モデルとの組み合わせが前提になるが、国内の遺産のどの区画が低地にあるかを世界共通の形式で確かめられるようになったことは、沿岸の文化財を長期的にどう守るかを考える出発点になる。