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バイユー・タペストリー、約1000年ぶりに英国で公開 大英博物館

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全長およそ70メートルの中世の刺繍作品「バイユー・タペストリー」が、現地の9月10日に大英博物館(ロンドン)で公開される。ノルマン征服(Norman Conquest、1066年にノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服した出来事)を描いたこの作品が英国の地に戻るのは、ほぼ1000年ぶりとされる。会期は現地の2027年7月11日までで、来場者は延べ100万人規模になると見込まれている。

何が起きたのか

公開前の内覧には英国のチャールズ国王、バーナム首相、フランスのマクロン大統領が揃って出席した。一般向けチケットの第1弾は数時間で完売するほどの人気だという。来場者に許される観覧時間はわずか40分で、作品を構成する58の場面で単純に割ると、1場面あたり約30秒しか見られない計算になる。館内での個人的な写真撮影は認められる見通しで、高精細画像はすでにインターネット上で自由に閲覧できる。

展示方法を巡っては英仏で判断が分かれた。ロンドンでは作品を水平に寝かせて展示するが、本来の所蔵先であるフランス・バイユーの専門美術館では、60度の傾斜をつけて見せる方針だという。バイユー側の説明によれば、傾斜展示の方がタペストリーにとって望ましいが、そのためには修復作業が必要で、英国からの返却後、バイユーの美術館が再開する前に行うとしている。今回の貸し出しに際してはフランス政府が「水平に展示すること」を条件としたため、ロンドンでは平置きとなった。

大英博物館のサインズベリー展示ギャラリーは全長70メートルで、68.3メートルのタペストリーがぎりぎり収まる寸法だったことが、ライバルとされたヴィクトリア&アルバート博物館ではなく大英博物館がこの貸し出しを勝ち取った一因ともいわれている。

背景

この作品の初期の来歴はほとんど分かっていない。記録上の初出は1476年のバイユー大聖堂の目録で、年に一度、聖堂の身廊に掲げられ、それ以外の時期は箱に収められていたと記されている。それ以前にどこにあったのかは謎で、制作直後から聖堂にあった可能性もあれば、フランス王家が所有していた可能性も指摘されている。1812年から1842年にかけては巻き取った状態でバイユーの町役場に保管され、見学者が求めると机の上で広げて見せていたという、当時としては簡素な扱いだった。

現存する作品には終端付近でおよそ3メートル分の欠損があるとみられ、冒頭部分にも欠落がある可能性が指摘されている。この欠損は、1729年にベネディクト会の学者ベルナール・ド・モンフォコンが版画を発表する以前から生じていたとされ、失われた場面にはウィリアムが1066年のクリスマスに戴冠する直前の出来事が描かれていたとみられている。

作品中最も有名な、ハロルド王が矢で目を射られる場面についても、実は後世の加筆である可能性が指摘されている。1729年の版画では、この「矢」は、ハロルドとされる人物が掲げる槍のように描かれており、19世紀の修復の際に位置がずれた可能性があるという。矢を受けた人物が本当にハロルドかどうかも、専門家の間で確定していない。

この作品にはハレー彗星のヨーロッパ最古の絵画表現も含まれている。ハロルドの戴冠直後の1066年4月に出現した彗星は、ハロルドの破滅を予告する不吉な兆しとみなされ、作中に描き込まれた。彗星のより早い表現としては、現在のトルコにあたる地域の修道院で編まれたシリア語の年代記「ズクニン年代記」に、760年の彗星飛来を記録したものがある。タペストリー以降でこれに次ぐ彗星の絵画表現は、200年以上を経た1305年、ジョットがパドヴァのアレーナ礼拝堂に描いたフレスコ画とされる。

第二次世界大戦の勃発時には、タペストリーはまずバイユー市内の地下シェルターに移され、1940年のドイツ占領後は近郊の修道院へ、翌年にはフランス北西部のシュルシュ城へと秘匿された。ナチス親衛隊の指導者ハインリヒ・ヒムラーがこの作品をドイツへ持ち去る計画を立てていたことも知られている。

日本にとっての意味

日本の大手メディアはこの展覧会について開催の告知程度にとどまり、作品の来歴や英仏をまたぐ複雑な経緯まで踏み込んで伝えることは少ないとみられる。だが1000年近く前の刺繍作品が、聖堂の目録、町役場での粗末な保管、戦時中の疎開、そして現代の国家間の貸借交渉という長い旅を経て今回の公開に至った過程は、それ自体が一つの歴史の縮図といえる。文化財の「里帰り」や国家間の貸し出しには、保存状態や展示方法を巡る条件交渉が伴うことが多く、これは日本の美術館が海外から作品を借り受ける際にも共通する論点である。

また、ハロルド王の死因とされる場面が実は後世の加筆かもしれないという指摘は、歴史資料をそのまま史実として受け取ることの難しさを示す一例でもある。教科書的な「定説」も、修復や版画といった後世の痕跡によって揺らぎうるという点は、歴史や美術史に関心のある読者にとって示唆的だろう。今回の展覧会自体は日本人が現地で見る機会が限られるとしても、こうした背景を知っておくことは、今後日本で類似の古美術の企画展が開かれた際の見方を豊かにするはずだ。