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ゴッホ受容を築いたユダヤ系収集家たち ハンブルクで振り返る展覧会

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ドイツ・ハンブルクのブツェリウス・クンストフォルム(Bucerius Kunst Forum)で、20世紀前半のドイツで近代美術のコレクションを築いたユダヤ系収集家たちに焦点を当てた展覧会が現地の2026年9月11日に開幕した。第一次世界大戦前のドイツには約150点のゴッホ作品が個人収集家の手元にあったが、第二次世界大戦が始まる1939年にはほとんど残っていなかった。多くは、ナチスの迫害によって手放されたり、所有者が命を落としたりした作品だった。

何が起きたのか

展覧会『From Monet to Picasso: Jewish Art Collectors in Germany』は、現地の2026年9月11日から2027年3月29日まで開催される。絵画とドローイングあわせて100点が並び、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、エドヴァルド・ムンク、ドイツ表現主義のエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーやマックス・ペヒシュタインらの作品も含まれる。共同キュレーターのシュテファン・コルデホフと、ブツェリウス・クンストフォルム館長カトリン・バウムスタルクが企画した。

展示の中心は15人のユダヤ系収集家で、それぞれに専用の展示室が設けられている。これらの一族は1930年代までに合わせて30点を超えるゴッホ作品を所有しており、多くはベルリンのポール・カッシーラーやミュンヘンのユスティン・タンハウザーといったユダヤ系画商から購入したものだった。しかし本物のゴッホ作品は《乱れた髪の少女》(1888年6月)の一点しか集まらず、会場ではその隣に、ベルリンの収集家クルト・オッペンハイムが失った作品を象徴する空の額縁が並べられている。

背景

ドイツでゴッホをいち早く評価したのは、主にユダヤ系、あるいはユダヤ系の血を引く収集家たちだった。1933年にナチスが政権を握ると、彼らは急速に迫害の対象となった。国外への亡命を強いられて美術品を手放すよう迫られた者や、殺害されて作品を没収された者も少なくなかった。押収美術品の来歴(provenance、作品の所有者の変遷)や返還問題は近年報道が増えているが、これらの収集家がドイツで前衛美術を育てた側面にはあまり光が当てられてこなかった。

《乱れた髪の少女》の来歴はその一例だ。モデルについてゴッホは、友人でオーストラリア出身の画家ジョン・ラッセルに「川の風景を描いていた午後に見かけた、汚れた小さな女の子」と記している。

作品は1912年までに、画商ポール・カッシーラーの妻で俳優のティラ・デュリユーの手に渡った。カッシーラーは1926年、デュリユーとの離婚手続きの最中に自ら命を絶っている。

作品はその後1920年代にベルリンのマルガレーテ・オッペンハイムが購入し、1935年に彼女が亡くなると継子のクルト・オッペンハイムが相続したが、ナチス政権下で所有作品の大半を売却せざるを得なくなった。この一点だけは当局への支払いと引き換えに国外持ち出しが認められ、彼はスイスへ亡命した。1945年にスイスの収集家夫妻に売却され、1986年にラ・ショー・ド・フォン美術館へ遺贈された。同館が今回、この作品を貸し出している。

クルト・オッペンハイムが所有していたもう一点の代表作《蔦のある木々》(1889年5月)は、より過酷な運命をたどった。1939年にパリ在住のアレクサンドリーヌ・ド・ロートシルトに売却されたが、1941年12月にドイツ占領軍によって接収された。最後に確認された記録は、1942年にパリのジュ・ド・ポーム(当時ナチスが略奪した美術品を保管していた施設)で撮影された写真だ。ヒトラーに次ぐ地位にあったヘルマン・ゲーリングがこの絵に手を触れている。その後の行方は分かっておらず、破壊されたか失われたとみられている。

会場にはもう一点、ゴッホの作品とされてきたものがあるが、これは偽作だ。《花瓶の矢車菊》は1935年にエッセンの銀行家ゲオルク・ヒルシュラントが本物として購入したが、1938年に米国へ逃れる際に置き去りにせざるを得なかった。作品はエッセン市に接収されてフォルクヴァング美術館に渡ったが、戦後の1949年に米国の遺族へ返還された。

1955年にニューヨークのワイルデンシュタイン画廊でゴッホ作品として展示された後に真贋が疑われるようになり、1970年に刊行されたド・ラ・フェイユによるゴッホ作品目録(カタログ・レゾネ、画家の全作品を網羅した目録)から除外された。今回、70年以上ぶりに公開され、偽作として展示されている。

共同キュレーターのコルデホフは展覧会の狙いについて、「ドイツにおける近代美術の確立、育成、擁護におけるユダヤ人の先駆的な役割」に光を当てることだと述べている。

日本にとっての意味

この展覧会が扱っているのは、散逸した名画の行方そのものではなく、誰が新しい美術の価値をつくり、それがどう失われたかという受容史の裏側だ。日本にも似た構図がある。実業家の松方幸次郎が20世紀前半に欧州で築いた美術コレクションは、戦時中にフランスで接収の対象となり、戦後に一部が日本へ渡ったとされる。収集家個人の目利きが後に公共的な意味を持つ形で受け継がれていく点で、ハンブルクの展覧会が描くドイツの収集家たちの物語と重なる部分がある。

もう一つの接点は、より実務的なものだ。ハンブルクの展覧会でゴッホの本物が一点しか集まらなかったのは、貸し出し交渉が難航したためだという。美術館が作品を借りたり購入したりする際には、1933年から1945年にかけての所有者の移動を含む来歴の確認は欠かせない手続きとされる。日本の美術館や収集家も同じ国際市場で作品を売買している。