インド「ゴキブリ抗議」が映す顔認証監視の広がり
インドで若者による抗議運動「コックローチ・ジャナタ党(Cockroach Janata Party、CJP)」が3か月以上続き、モディ首相の政権に対する近年最大級の異議申し立てとなっている。教育制度の腐敗への怒りから始まり、失業や政治の説明責任を問う全国運動に広がった。同時に、警察が抗議現場で使った顔認証システムが参加者を後から特定していたことも明らかになった。
何が起きたのか
CJPは現地の2026年5月、インド最高裁長官スーリヤ・カント氏が失業中の若者を「ゴキブリ」にたとえた発言をきっかけに始まった。政治コンサルタントのアビジート・ディプケ氏がこの侮辱を逆手に取り、「ゴキブリ」たちに結集を呼びかけたことから、運動名は与党インド人民党(Bharatiya Janata Party、BJP)をもじって名付けられた。きっかけは医学部進学希望者向けの全国共通試験NEETの問題漏洩や採用試験の不正、教育制度への不満だった。
現地の7月20日、数千人の支持者がニューデリーのジャンタル・マンタル観測所から国会議事堂への行進を試みた。警察は放水砲や催涙ガス、ペレット弾、ラティ(lathi、南アジアで警察が使う竹製の警棒)で解散させ、多数を拘束した。参加者には多数のFIR(First Information Report、警察が捜査を始める際に作成する届出書)が出され、デリー警察は犯罪歴のある人物が加わっていたとして強制排除の必要性を主張している。
現地の7月25日には、ジャンタル・マンタルで36日間続いた座り込み抗議を受けてプラダン教育相が辞任し、政府は参加者を処罰しないと約束した。
現地の8月末、CJPは政府が約束を反故にしたとして、FIR全件の撤回を求める新たな行進を現地の9月5日に計画すると発表した。この対立は現地の9月1日、最高裁が中央政府と与党BJPが統治する4州の申し立てを受け、憲法第142条(最高裁に幅広い命令権限を与えるとされる規定)に基づき全国で100件を超えるFIRを取り消すよう命じたことで決着した。ソリシタージェネラルのトゥシャール・メータ氏は、試験中止後に自殺したNEET受験希望者の遺族に補償する方針だと法廷で述べたとされる。
CJPの共同招集者(co-convener)サウラブ・ダス氏は現地の9月5日の行進を取り下げた。ただし政府は、抗議現場にいた犯罪歴保持者ら約2900人について新たなFIRを提出する権利を留保している。
デリー警察は抗議現場で顔認証システム「イクシャナ(Ikshana)」を使っていた。同システムは監視カメラの映像から顔を検出し、警察のデータベースと照合する。警察は最高裁に対し、2873人を犯罪歴のある人物として検出したと説明した。ところが調査報道Scroll.inの検証で、殺人や性暴力の容疑者を含む少なくとも25人が、システムが「抗議現場で発見した」とされた時点で実際には収監されていたことが判明した。
背景
CJPは既存の政党組織を介さず、SNSの風刺動画やボランティアの分散的なネットワークで組織化された点が新しいとされる。モディ首相は現地の2024年6月に第3期政権を発足させており、CJPはその任期下で最大級の異議申し立てのひとつになったと報じられている。
デリー警察はもともと、行方不明や人身売買の被害に遭った子どもを見つけるためにこの顔認証技術を導入したとされる。それが群衆の監視にも使われるようになったとGlobal Voicesは伝えている。インドの関連法制は現時点で断片的なままだとされる。顔認証や生体情報の収集が同意なく行われ、集めたデータが民間企業のもとで保管されていると訴える申し立ても最高裁に持ち込まれている。
この技術の重みは、取り締まりの効率そのものよりも、市民と国家の関係を変える点にある。従来の群衆規制は現場で完結し、警察は行進を止め、拘束した人物を後から捜査する。デジタル監視はこれとは異なり、抗議の現場にいなくても顔を照合し、他の情報と結びつけて政治参加の記録を残せる。Global Voicesの記事はこの構造について「民主的な自由は、国家による直接的な暴力から守られることだけでなく、自分の参加が永久に記録されると考えずに市民が組織化できることにかかっている」と指摘している。
もっとも、この3か月間の展開は監視の強化だけを示しているわけではない。教育相の辞任、全国のFIRの取り消し、最高裁が警察の過剰な実力行使の疑いを審理すると決めた点、生体監視への異議申し立てが最高裁に届いた点は、SNSを起点にした運動でも国家から具体的な譲歩を引き出せることを示している。
日本にとっての意味
日本ではインド国内の政治や司法の細部が報じられる機会は少なく、CJPの運動もほとんど知られていない。しかしこの一件が示す「現場の取り締まり」と「あとから参加者を割り出して記録に残す」ことの違いは、顔認証の導入が駅や商業施設、大規模イベント会場で広がりつつある日本にも通じる論点である。防犯目的で集めた顔データが本来の目的を離れて別の用途に使われることをどう防ぐかは、個人情報保護法のもとでも十分に整理されているとは言いがたい。
さらに重い問いは、誤りを含む可能性のあるデータが行政や捜査の出発点になったとき、名指しされた側がそれを訂正させる手段を持てるかという点だ。インドでは、収監中の人物を「抗議現場で発見した」と誤認した検出結果が明らかになっている。顔認証技術の精度や運用の透明性をどう検証し、異議を申し立てる仕組みをどう用意するか。これは監視技術の導入を検討するどの国にとっても避けて通れない課題であり、インドの一件は日本の制度設計にも参考になる事例だと言える。