ルブリョフの聖画『三位一体』、教会安置先で温湿度管理ケース故障か
ロシアで最も貴重とされる宗教美術品、15世紀初頭にアンドレイ・ルブリョフが描いたイコン(キリスト教の聖画)「三位一体」が、安置先の温湿度管理ケースの故障により危険にさらされていると伝えられている。長年所蔵していた国立トレチャコフ美術館が現地時間9月14日、職員が状態を確認していると明らかにした。破損の程度は確認中で、確定した事実ではない。
何が起きたのか
「三位一体」は2023年、プーチン大統領の指示でトレチャコフ美術館からロシア正教会に移管され、モスクワ近郊のトロイツェ・セルギエフ大修道院(Троице-Сергиева лавра)に安置されている。ニュースサイトRBCによると、モスクワ総主教庁の法務部門を統括する修道女クセニヤ・チェルネガ氏は現地時間9月15日、聖画が一時的に複製に差し替えられたと述べた。RBCが修道院関係者への取材で確認したところでは、複製は8月に設置されたという。
トレチャコフ美術館の広報は現地時間9月14日、国営タス通信に対し、聖画は修道院の修復工房にあるとし、職員が「状態を確認している」と説明した。2023年の移管条件によれば、聖画は現在も国有財産のままとされている。
発端は、ロシアで放送禁止となったラジオ局の元記者らが国外で立ち上げた報道サイト「エホー」が現地時間9月12日に伝えた記事だった。匿名の関係者によると、この報道の2か月ほど前にケース内の湿度が80%まで上昇したとされる。これは当時トレチャコフ美術館の館長だったエレナ・プロニチェワ氏が国営リア・ノーボスチ通信に語っていた基準(気温19度±1度、相対湿度50〜55%)を大きく上回る数値だという。
同関係者によれば、ドイツから招かれた専門家がケースの故障を突き止めて修理したが、専門家が去った数時間後に再び故障したとされる。「国際関係の複雑さ」がこの専門家の再訪を妨げているとも伝えられる。エホーはまた、聖画を構成する3枚の板材が湿気で反り始めていると報じた。
ベルリン在住の作家でロシア当局から「テロリスト」認定を受けているクセニヤ・ルチェンコ氏は現地時間9月13日、「ルブリョフの三位一体が死にかけている」とSNSに投稿した。この報道は拡散した。一方、美術評論家のソフィア・バグダサロワ氏は、ネット上に出回るひび割れ写真について、にじみ出ているのは修復用の接着剤で、木材の膨張によるものだと説明した。タス通信は2024年、ドイツに特注した「強化型の新しいケース」を修道院の聖堂に導入したと報じていたが、これが今回故障したケースと同一かどうかは明らかではない。
背景
「三位一体」は、旧約聖書に登場するアブラハムのもとを訪れた3人の天使を描き、キリスト教の三位一体を象徴する作品とされる。20世紀初頭の修復で本来の色彩が現れたことは、画家カジミール・マレーヴィチやナタリア・ゴンチャローワら前衛美術家に大きな影響を与えたとされ、映画監督アンドレイ・タルコフスキーの作品『アンドレイ・ルブリョフ』もこの聖画師を主題にしている。
この聖画は長らく美術館の所蔵品として、恒常的な温湿度管理のもとに置かれてきた。2023年の教会への移管は、美術品としての保存と、信仰の対象としての礼拝という、性格の異なる2つの管理体制の間で聖画の置き場所が変わったことを意味する。
プーチン氏は今年に入ってからも、1130年にコンスタンティノープルで制作された「ウラジーミルの生神女」や14世紀の「ドンの生神女」など、トレチャコフ美術館の複数のイコンをロシア正教会に移管しており、いずれも4月にモスクワの救世主キリスト大聖堂でプーチン氏が拝礼する場に展示されたと報じられている。ロシアのウクライナ侵攻をめぐっては、聖画や聖遺物が民衆の感情に働きかける宗教行事の場でたびたび用いられており、正教会トップのキリル総主教も戦争を公然と支持してきたとされる。今回の空調故障は、こうした政治・宗教的な文脈のなかで美術品が移動してきた経緯の延長線上にある出来事といえる。
日本にとっての意味
日本の寺社が所蔵する国宝・重要文化財の仏像や仏画にも、同じ構図の緊張が存在する。秘仏や本尊は信仰の対象として寺社が日常的に管理しており、博物館の収蔵庫のような恒常的な温湿度管理を前提としていない場合が多い。開帳や特別展への貸し出しのたびに、置かれる環境が変わり、保存の専門的判断と、信仰・儀礼上の必要性との間で調整が必要になる場面がある。
ロシアの事例は、その調整がうまくいかなかった場合に何が起きうるかを示す。美術館の保存基準(気温19度前後、湿度50〜55%程度)から外れた環境に長期間置かれれば、木製の文化財は反りや割れのリスクにさらされる。国宝級の文化財がどこに、どのような条件で置かれるかは、単なる展示上の話ではなく、その文化財が何百年も先まで残るかどうかを左右する。今回の一件は、所有者の意向と保存の専門性が対立したときに、文化財そのものが失われかねないという、日本の文化財行政にも通じる論点を改めて浮かび上がらせている。