米国のワクチン忌避、「情報不足」でなく信仰の表現と説く新刊
世界の主要な宗教はいずれもワクチン接種そのものを禁じていない。それにもかかわらず米国では、数千人規模の人々がワクチン接種は自分の信仰に反すると主張している。宗教学者による新刊は、こうした忌避感情を「誤った情報のせい」ではなく、真正な宗教的表現として理解すべきだと論じている。
何が起きたのか
宗教学の歴史学者キラ・ガンガ・キーファー氏は、著書『Unvaccinated Under God: Religion and Vaccine Hesitancy in Modern America(神の下で未接種のまま:現代アメリカにおける宗教とワクチン忌避)』で、過去50年間の米国のワクチン忌避の歴史をたどった。CIDRAPとのインタビューで同氏は、宗教を教義や信条だけでなく、日々の実践や儀式、道徳観といった広い枠組みで捉え、その視点からワクチン忌避を分析したと説明している。
背景には米国内の制度の動きもある。学校でのワクチン接種を宗教上または個人的な理由で免除される件数は増加傾向にあり、宗教の自由とワクチンをめぐる訴訟は少なくとも5件が連邦最高裁に係属中だという。2026年7月には、アラバマ州選出の共和党上院議員トミー・タバービル氏が、宗教上の理由による接種免除を認めない学校への連邦補助金支給を止める法案の提出に加わった。
キーファー氏は、ワクチンに懐疑的な親の中には、子どもの体を「純粋」に保ちたいという動機から接種を拒む人がいると指摘する。これは沐浴や食事、瞑想、性に関する規律など、多くの宗教が身体の清浄さについて定めてきた規範と似た構造だという。また、深刻な病気など、人生を一変させる出来事を経験した人が、その痛みに意味を与えようとして「これが起きたのは自分の身に何らかの大きな道徳的物語があったからだ」と再解釈すること自体も、宗教的な営みの一形態だとしている。
背景
キーファー氏が具体例として挙げるのが、1980年代に米国で広く接種されていた全菌体型の三種混合ワクチン(ジフテリア・百日咳・破傷風、通称DPT)をめぐる動きだ。このワクチンは重い副反応の報告率が比較的高く、現在の米国では使用されていない。なお、科学的な検証では、DPTが長期的な神経障害のリスクを高めたとする十分な証拠は見つかっていないとされる。それでも同ワクチンは、副反応がはるかに軽い無細胞型のワクチンに置き換えられていった。
キーファー氏は、この転換の背景には親たちによる運動があり、その運動の構造は福音派キリスト教徒が語る「回心」の物語と重なると分析する。すなわち、迷いの中にいた者が転機を経て新たな自己を得て、世界をよりはっきり理解できるようになるという語りの型だ。1980年代の「DPT安全性運動」は、福音派やキリスト教右派が勢力を伸ばした時代背景と重なりながら広がり、「健康だった子どもが病気になった、原因はDPTの注射に違いない」という親の物語を通じて、ワクチンへの見方そのものを一変させていったという。この運動はすべてのワクチンに反対するものではなかったが、今日の広範なワクチン忌避運動の土台になったと同氏は位置づける。
1990年代から2000年代にかけては、母親に対する社会的な期待の変化がさらにこの流れを後押ししたとキーファー氏は述べる。子育てに一段と高い注意とエネルギーを注ぐことが求められるようになった結果、母親たちは子どもに起こりうるあらゆる悪い事態を防ごうとし、それが子どもを「神聖化」するような態度につながったという。同じ時期、有機食品や人工添加物への関心の高まりに象徴される自然志向の健康・ウェルネス文化も広がった。さらに、特に保守的でない白人中間層の女性の間では、既存の宗教組織への帰属よりも、自分なりのスピリチュアルな生き方を模索する傾向が強まり、それが自分の体や子ども、母親としての役割そのものを神聖視する形で表れたと同氏は指摘する。
日本にとっての意味
日本ではHPVワクチンをめぐる忌避が長く語られてきたが、その議論は主に副反応報告や積極的勧奨の中止・再開といった制度・医学の言葉で組み立てられてきたとみられる。今回紹介した米国の研究は、ワクチンへの態度を「知識が足りているかどうか」ではなく、身体の純粋さや母親としての役割、人生の意味づけといった、より根の深い価値観の表れとして読み解く視点を示している。
新型コロナウイルスの流行時、米国では立場を問わず医療の権威そのものへの不信が広がったことが知られている。日本でも、ワクチンをめぐる意見の対立は単なる情報格差の問題として片づけられがちだが、実際には健康・自然・子育てをめぐる価値観の違いが絡んでいる可能性がある。米国の事例をそうした視点で捉え直すことは、日本国内の議論を考える上でも参考になりうる。