ゲートウェイアーチが皮をなめす枠に見える アラスカの先住民作家が西部開拓の記念碑の前に彫刻
米ミズーリ州セントルイスのゲートウェイアーチの前に、張り広げた動物の皮をかたどった金属の彫刻が置かれた。つくったのはアラスカを拠点とする芸術家ニコラス・ガラニン氏。しゃがんで見上げると、アーチの内側に皮がぴんと張られたように見え、西部開拓の記念碑が、先住民が皮をなめすときの枠に変わる。
何が起きたのか
作品名は「土地は決して入り口ではない(視線/命綱)」(Land is Never a Gateway (Sightline/Lifeline))。セントルイスの美術祭カウンターパブリック(Counterpublic)のために制作された。設置場所は、建築家エーロ・サーリネンが設計したアーチの前の、歩道の小さな一画である。来場者はそこでかがみ込み、作品を見上げる。すると、皮の形をした金属の彫刻が背後のアーチとぴたりと重なり、目の錯覚が生まれる。
動物の皮の加工は、北米の多くの先住民に受け継がれてきた伝統の技である。長い工程の一つに、皮を枠に縛りつけて引き伸ばし、乾かして仕上げる作業があり、彫刻はその場面を描いている。
ガラニン氏の狙いは、アーチが記念する西部開拓と「明白な天命」(マニフェスト・デスティニー)の物語に異議を唱えることにある。19世紀初めから、入植者や牧場主、米国政府がミシシッピ川を越えて西へ進んだ動きである。ミシシッピ川のほとりに立つ高さ192メートル(630フィート)のアーチは、この西部開拓の記念碑として設計され、一般には「西部への入り口」と呼ばれている。
同氏は、作品はアーチとそれが記念する西部開拓の物語について考えるなかで生まれたと説明し、「その視線をさえぎりたかった」と話した。見る位置によって、どの歴史が見え、どの歴史が覆い隠されてきたかが決まる。アーチと作品の重なりは、そのことを思い出させる「視線であり命綱でもある」という。
背景
ガラニン氏はアラスカ州シトカを拠点とし、アラスカのリンギット(トリンギット)とウナンガックス(アレウト)の血を引く。カウンターパブリックの委嘱を受けてセントルイスに通い、土地の歴史を調べた。同氏によれば、調べたのは「土地そのものに刻まれた歴史」であり、先住民からの土地の収奪や人種資本主義、人種隔離、資源の採取だった。作家としての声明では、適応や生き延びること、能動的な文化の忘却、記憶、文化の再興、土地とのつながりと断絶などを主題に掲げている。
カウンターパブリックは今回が3回目で、地元と世界各地の芸術家が委嘱作品を市内各所に置く。2026年のテーマは「コヨーテ・タイム」(Coyote Time)で、セントルイスの過去と現在と未来を探ることを求めた。参加作家はオグララ・ラコタの芸術家カイト氏や、ロサンゼルスを拠点とするアリス・バックネル氏ら50人を超える。運営は事務局長のジェームズ・マカナリー氏らが担い、5人のゲストキュレーターが加わった。前回の2023年には、ニューヨークの芸術家トークワセ・ダイソン氏が、ラグタイムの作曲家スコット・ジョプリンの音楽に光を当てる黒い巨大な構造物をつくった。
会期は9月10日から12月12日まで。写真はジョン・ギッチョフ氏が撮影し、カウンターパブリックが提供した。
日本にとっての意味
ガラニン氏はアーチを壊しも書き換えもせず、見る位置だけを変えた。同じ記念碑が、立つ場所によって開拓の記念にも、収奪の記録にも見える。
北海道にも、開拓を記念する塔があった。札幌市厚別区の野幌森林公園に1970年に完成した、高さ100メートルの北海道百年記念塔である。道の説明によれば、設置の目的は「本道の発展に尽くした有名無名のすべての先人に対する感謝の心と、北海道の輝く未来を創造する決意と躍進北海道の姿を力強く象徴するもの」だった。塔は2014年7月から立ち入り禁止になっていた。外板の鋼板の接合面では錆が進み、錆片の落下も見られた。道は、公園を使う人の安全と将来世代の負担を理由に解体を決め、塔はすでに取り壊されている。
道が解体の理由に挙げたのは、老朽化と将来の負担だった。一方で、2022年2月の住民向け説明会で道が示した、跡地に置く新しいモニュメントの考え方には、元の塔の目的にはなかった言葉が入っている。「はるか太古から連綿と続く北海道の歴史・文化」を引き継ぎ、「お互いの多様性を認め合う共生の立場」に立つ、というものだ。2019年には、アイヌの人々を「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族」と明記したアイヌ施策推進法が成立している。
塔の意味をめぐる見方は、道民の間でも割れていた。同じ説明会の議事録には、「百年記念塔はアイヌ迫害の象徴」という意見があると知ったが、道民はそんなことを夢にも思っていない、とする意見が寄せられたことが記録されている。セントルイスでは、アーチを残したまま、その前に立つ一人の作家が別の見え方を差し出した。北海道では、塔そのものが錆を理由に消え、見方の違いは跡地に何を置くかという問いに移った。